落とし前をつけるとき
しばらく前、
「明日の約束」というドラマをやっていましたね。
いわゆる毒親についてのお話ですが、
私はたまたま最終回だけ観ました。
いや~本当に、昔自分の身に起きていたこととかなり合致してまして(^-^;
うわぁぁぁと思いながら観ました。泣いちゃいましたね。
よく、アデプトを受けて何が変わっただろうと考えるとき
過去の自分を思い出すのですが、
アデプトを受ける以前の自分自身に思いをはせると、
母との関係や体験によって作られている部分が圧倒的に大きいことに愕然とします。
アデプトを受けて、母との関係や体験、
それ以外にも色々、それまで気づかなかったところに気づけるようになって、
本当に、気づいたところから少しずつ、自分で自分を作り直していった。
そんな感じです。
アデプトプログラムのテーマは
「汝自身を知れ」なので、
受けたのちは、自分自身を知るきっかけとなるようなことが起きるようになります。
自分の周りで起こる出来事とか、自分が関わっている人々を見ることによって
自分を知ることができるようになるんですよね。
そういうことなので、
サロンに来て下さるお客さまの中にも
私と同じような体験をされた方が結構いらっしゃいます。
でも、逆に、ものすごーく家族と仲良しで、温かく有り難い環境で育てられました。
という方もいらっしゃって、
そういう方から学ばせていただくことも、ものすごく多いです。
私に足りない部分を見せてくださる。
足りない部分を補完してくださるんです。
そうやって少しずつ、自分自身を知り、
自分で自分を護るために身に着けてきた仮面や鎧を、
徐々に外すことができるようになりました。
先日も、もう何年も前にアデプトを受けてくださった方から
お母さまとやり合ってしまいました。というお話を伺いました。
ご自身は何気なく言ったつもりの言葉に対して、突如お母さまがイラっとしてキレてしまった。
よく考えると、ご自身の内側に、お母さまに対する恨みの感情があって
それが会話の中でちょっとした棘となって出てしまったのだと思う。というお話でした。
これは、あるあるですね。
正確には、この方の発した言葉がお母さまをイカらせた、というわけでもなくて、
この方の言葉の中に、何らかお母さまにとっての地雷があったということです。
地雷=見たくないもの、耳をふさいでおきたいようなことでして。
つまりは相手の発した言葉のどこかの部分に、自分にとってイラっとする部分があって、
そこに反応して逆上する。
これは、どんな人間関係においてもよく起こることです。
こういう自分自身の反応を分析することが自分自身を知るきっかけともなります。
それはともかくとして、
この方にとって何らかの考え方のヒントになればと思い、
私が、自分の内側に溜まった母に対する恨みの感情をどのようにして
解消したかについて、私自身の体験をお話ししたので、
今日はそれについて書いてみようと思います。
セッションのなかでお聞きになったことがある方もいらっしゃるとは思いますが。
母が癌の闘病生活をして6年半。
亡くなる前の3週間、私は毎日病院に通いました。
正直、不思議だったのです。
何故自分が、献身的とも思えるほどに毎日病院に通っているのか。
娘として?
後悔したくないから?
母に対する愛?
どれも自分としては全くぴんとこず。
私の中には母に対する長年の恨みや
憎しみのような気持ちがあるということを自覚していましたから。
そんな自分が何故?まったく謎でした。
そんなある日
ある気づきが、天啓のように降ってきたのです。
自分の中にため込んだ恨みや憎しみは全て、
ほかならぬ自分が自分でため込んだ自分の感情だということ。
いま私がやっていることは、
内側にため込んだ憎しみを、私自身の愛で、相殺しているんだ!ということ。
自分の中の負の感情、それが、
たとえ他の人から受けた仕打ちによって引き起こされてしまったにせよ、
自分のなかに滓のように溜まっている感情はまぎれもなく自分自身のもの
もしかしたら私は、
何らかの方法で、それを溜めないようにすることができたのかもしれない。
実際には、そんなのかなり難しいことだったと思いますけどね。
けれど溜めてしまった。
自分の中に負の感情を溜め込むことを選択してしまった。
その負の感情が、自分自身を蝕んでいるんです。
もしかりに、いま母が、
昔わたしにした仕打ちに対して悪かったと謝ってくれたとして、
そうしたら、その負の感情は、
恨みや憎しみは私の中から消えるのだろうか?
そんなことはあり得ない。
だってその恨みや憎しみは、私自身のものだから。
自分で溜め込んだ感情の落とし前は、自分でつけるしかない
自分の感情は自分で消すしかないんです。
私はいま、自分の内側の愛を総動員して
自分の中に長年溜め込んだ恨み憎しみを消している。
そう感じました。
その愛は、母に対するものや自分に対するもののようではなく、もっと大きなもの。
私の中の善なるもの、神の資質から発している、慈悲のようなものだと感じました。
毎日母の病室に通っているのは、ほかならぬ自分のためなのだと、そのとき思いました。
この何週間かは自分を癒すために与えられた機会なのだと。
そして母が亡くなろうとしている今、
母との関係性から生じた感情を相殺するための、これが総決算なのだと。
それは自分の中の悪と、善との闘いのようなものであったのかもしれないと
いまは思います。
そして、善は、必ず勝利するんです。
自分の内側に負の感情を溜める行為は、必ず自分自身を蝕みます。
そして、いつか自分自身で落とし前をつけるときがやってきます。
それは、できれば、できるだけ早い方がいい。
この地上でやろうと思ってきた自分の計画を達成するために。
自分自身に喜びを見いだし、その喜びを他の人にも分け与えるために。
ここに書いたのは、あくまでも私自身の体験ですが、
私の体験した気づきが、どなたかのお役にたつことがあれば幸いです。