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泣くことについて。父のこと。ミッション☆

2024.09.21 土曜日

※以前「泣けないあなたに」という記事を書きました。
その記事と内容的にダブっている部分があります。

 

私は小さい頃とても泣き虫でした。

幼稚園で絵が描けなくては泣き
ちょっと髪を引っ張られては泣き
誰かがいじめられていると助けに入っては結果自分も泣かされ
母の理不尽な言葉に泣き
兄のちょっとした暴力に泣き、嫌がらせにいらついては泣き

一度も泣かないで過ごした日はなかったんじゃないかと思うほどです。

 

そんな私は
小学校入学にあたり「人前では二度と泣かない」と決心しました。
そして実に29歳まで、人前で一度も涙を見せませんでした。
家で、自分の部屋では一人でよく泣いていましたが。

意地っ張りでしたね。
強くなりたいと思っていました。

 

子どもの頃の私が怖れていたこと、
それは、いつか親や兄が亡くなったとき
自分は一滴の涙もこぼせないのではないかということでした。
それどころかホッとしてしまうのではないかと。
それがとても不安でした。

自分の親が亡くなった時悲しんだり涙を流したりするのは
ひととして至極当然のことだろうと
子どもだった私は思っていて、
それができないということは、なんて言うか・・・
人でなし? 人非人? そう思っていました。

自分にはそんなひどく薄情な面、
冷酷な面が確かにあるような気がしていました。
自分で自分が心底おそろしかった。
サイコパスなんて言葉もない頃でしたし。

 

30代後半、すでにこの道に入っていたころですが、
私をものすごく可愛がってくれた祖父が亡くなった際、
私は一滴の涙もこぼしませんでした。

別に悲しくはなくて、
祖父に対して「お疲れさまでした」という気持ちがあるだけだった。
亡くなった年齢が98歳だったというせいもあるでしょうが、
形而上学についてすでに学び始めていましたから。

祖父はまったくボケもせず、90過ぎてもゴルフをするような人でしたが、
嫁である母が闘病生活を送っていたため、
晩年最後の2年くらいは老人介護施設に入っていました。

食事の補助なども全く必要なく、
当初は意地のように施設から会社に通ったりしていました。

 

祖父の遺体が数日間、実家にあった間
施設の方々が、次々と最後のお別れに来てくださいました。
1回に8人くらいずつ4回だったか5回だったか。
しまいには厨房の方々まで
白いコック服のままで来てくださいました。

とにかくその方々が皆さん祖父に声をかけ、顔に触れたりしながら
泣いてくださるのを目の当たりにして、
私はただただびっくりしました。孫の私が一滴の涙もこぼさないのに!

新しい施設でしたので
もしやお祖父ちゃんはそのなかで、亡くなった人第一号だったりするのか⁉
と思ったりしましたが、違いました。

単に皆さんに好かれていたのです。

 

そのようななかで気づいたことがありました。

私は普段誰かのために泣かないだろうか?
そんなことはない。私は冷血漢ではない。

いまこうやって祖父のために泣いてくれている人がいる。
私は、きっと違う時に違う形で誰かのために泣くのだろう。
それでいいのだと思いました。

いま泣けないわたしの代わりに
誰かがどこかで涙を流してくれている。
そして、わたしがいつか流す涙は、
どこかで泣けない見知らぬ誰かの代わりに流されるのだと。

そして確信しました。
これから先わたしは父が亡くなろうとも母が亡くなろうとも、
そう、身内が亡くなったときには涙を流すことはないのだろうと。

 

果たして母が亡くなったとき、
思った通り一滴の涙も湧いてきませんでした。
人々は皆わたしを、気丈にふるまっていると言いましたが、
わたしは本当にただ普通にしていただけでした。

悲しくはなかった。
これでわたしのやるべきことがひとつ、
人生における母との関係というものが終わった。
観ていたドラマが終わったように。

わたしにやれることはみんなやった。そう思いました。

 

 

先月、父が亡くなりました。

唐突に意識を失っていて病院に搬送され、2日で逝きました。
意識は戻らないままでしたので、
最後に会ったのはなくなる1週間前、声を聞いたのは4日前でした。

搬送され手術したあくる日、
ICUにお見舞いに行き、父の手に触れたら
私の後ろの肩の上あたりにエネルギーを感じて、
父が「やれやれまったく、まいっちゃうよね~」と言っているように
聞こえました。

いや!もう肉体から抜けたの?と思いましたが、
肉体はまだ機能しているように見えました。

 

1時間くらいだけ居て、一旦家に帰って
そうしたら真夜中、病院から呼び出されました。
心臓がもうもたないだろうと。

半日前には機能しているように見えた父の肉体は
もう完全に終わっているように感じました。
もう頭の中に声も聞こえず。聞き取れるかと探ってみましたが、
機械の音がシューシューうるさくて集中もできず、無理でした。

足に触れながらひとりで見守っていましたら、明け方心臓が止まりました。

 

ほぼ一週間後に葬儀が執り行われました。

父は愛されキャラでしたし、あまりに突然のことで
お友だち、プライベートで親しい方々は、
涙をこらえたお顔でお焼香してくださり、
そして、私の顔を見ると涙をこぼしました。

昔お目にかかったことのある方や、
日頃家族ぐるみでお付き合いのあった何人かの方が、
私にお電話をくださり、皆さん電話口で泣いてくださいました。

 

やはりわたしには、一滴の涙も湧いてくることはありませんでした。

 

 

人にはそれぞれ使命(ミッション)があります。

両親との関係が終わり、私は
その関係性のなかで私自身の道を確立する
という一つのミッションを完了しました。

逆境の中で自分の光をいかに保つかということを母と兄を通して学び、
慈悲の何たるかを父を通して学びました。

父も、私という人間を育て援助し見守るという役割を
特にアデプトイニシエートになって以来
完璧に為してくれました。

 

母が亡くなって10数年、ほぼ毎週1回以上父と食事をしていました。
その中で形而上学の話もよく話しました。

十数年前に母と一緒にアデプトを受けてくれました。
「死んだらどこに行くのかも知らないまま死んでほしくないから」と伝え、
半ば脅すようにして受けてもらいました。
父がかぶりたがっていた「娘に理解のある父親」という仮面を利用して。

 

そのおかげもあり、元気で、日ごろから一切の面倒もかけず
本当に娘にとって理想的な有難い父親でした。

この10数年間、私がこの仕事に専念して
やりたいようにやってこられたのは、父のおかげです。

母の時と同じく、やれることは全てやりました。
思い残すことは一つもありません。
父もそうだったろうと思うのです。

お互いの関係性における使命を、
私と父はそれぞれに完了させました。

感謝とともに、まもなく四十九日を迎えようとしています。

 

 

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