自分にしか表現できないもの
本当に本当に、個として自分を主張する時代はとっくに終わったんだなと痛感した。
わかっていたことだけど。
先日、縁あって、とあるバーで行われるライブコンサートに行ったときのこと。
目当てとしていた、友人の演奏より少し早めに到着。
40代以上くらいの、男性ばかりの、素人らしきグループの演奏(半分は自作のもの)
を3組(1時間ちょっとくらい)も聞いていたら、
何だかすごくもやもやした気分になってしまった。
ご自分で創った曲を披露する。それは良いと思う。
ひとつの貴重な発表の場として、大切な経験として、温かく見守りたい。
でもね…
ごめんなさい。あなたが歌っているあなたの「意見」には、わたし興味ない。
あなたの「主義・主張」が聞いてるわたしを苦しくさせるんです。
あなたはご自分の意見にメロディーをつけて、発してるだけですよね?
意見垂れ流しですか?
って思ってしまった。
・・・
意見垂れ流しだなんて、
なんで、そんな風に感じてしまったのだろう?と、
そのあとも、帰ってからもずっと、考えていた。
だって、どんな歌も、創った人は自分の思いを歌詞にしているのだし。
それなのに…
あれは、あの違和感はなんだったんだろう…と。
人々の心を打つかどうか?
自分の意見を垂れ流す人と、普遍的なものにアクセスすることができる人との違い?
普遍的なものにアクセスするっていうのは、私の感覚だと、例えば
その唄の歌詞そのものではなく、その歌詞を聴くことによって、自分の内側の何かが動かされるような、琴線に触れるというかな、
小説なんかだと、よくそういうことあるけれど。
いずれにせよ、歌であれ小説であれ、世に出て多くの人に知られているものは、既に何と言うか風雪にさらされて(?)生き残ってきたものだから。
多くの人々の心を何かしら動かしてきたものだから。
・・・
このコンサートは、愛と平和のためのイベントと謳っていた。
コンセプトはすごく良いと思った。。
自分たちのできることは、小さいことだけど、世界に愛と平和を拡げるためにやっていこう。と主催者の方が語っておられた。
何より15回も続くって素晴らしい。
でも…そういうなかで、ただ自分の個人的な意見を垂れ流すだけだったら、
世界は何も変わらない。間に合わない。
そう思ってしまって、
正直茫然とした。
そして、ふと思った。
そうか、その主張が意見にしか聞こえないとき、そこには、個というものしかないんだ。
私、から、私たちへ
私もあなたも、そう、私たち全てがもともと同じものであるひとつの根源に、おおもとにアクセスする必要がある。
個から全体を感じられたとき、普遍的なもの、根源へとアクセスするとき、私たちの内側が揺り動かされる。同じひとつのものとして共振する。
個としての「私」の表現が、「私たち」へと拡がっていく。
想いや喜びを共有することができる。
歌人も小説家もプロとして生き残るというのはそういうことなのだろう。
その人らしさ、その人のスタイルというものに、多くの人が心を惹かれていく。
私たちは、ひとつのところからやってきた。
自分にしか表現できないものを表現するために。
それをすることによって、究極の喜び(歓びかもしれないし、悦びかもしれない)を得るために。
あなたがもしそれを望むのであれば、
何故か個であると思ってしまって身に着けている殻、いつの間にか自分にかけてしまってきた制限は、脱ぎ捨てることができます。
さなぎが蝶になるように。脱皮するように。
自分を最大限に生かさないのはもったいない。
おおもとって何?
わたしにしか表現できないものって何だろう?
どうやったら、殻を脱ぎ捨てて、究極の喜びを得ることができるんだろう?
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