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見える世界と見えない世界☆花の乱を観て思うこと

2019.03.01 金曜日

久しぶりに、昔の大河ドラマ「花の乱」を観ました。
応仁の乱を扱ったこのドラマ。
私は好きだったんですが、何せ戦ばかりであまりにも暗い(*_*;

当時、大河ドラマ史上最低(!)視聴率をたたき出したんですが、
それでも視聴率とは別に、今でも多くの人に高い評価を得ている作品です。

何と言っても俳優陣が素晴らしい方だらけで、殊にテレビ初出演の野村萬斎さん。
当時28歳。圧巻の演技で。
もうね。目を奪われっぱなしです。

 

花の乱の中で、私が何度も観てしまう回があり、
今日はそのことについて書きたいと思います。

 

都を飢餓が襲って、
足利義政の正室富子は、ある日災難にあって乗っていた輿から投げ出され
飢えた民たちが争って米に群がるのを見てしまいます。
夫である将軍義政は、ひたすら念仏を唱えていて輿から出なかったので
その光景は目にしません。

民の悲惨な状況を目の当たりにした富子は寺で施し粥を始めます。
でも義政は認めない。

人は天の定めに従って死ぬものなのだから、飢えて死ぬのは仕方がない。
それよりも飢えて死んだ者たちの魂を供養してやりたいと言う。

 

それでも富子は納得せずに、身の回りの物を金に換えて、
施し粥の費用に充てようとする。
富子は「御所様は何も見ていない。見ようともしない」と言って
義政をなじるわけです。

まぁ義政は。。。銀閣をつくった人ですけれど、
政治のことはほったらかしで、能見物と庭づくりに逃げ込んでいるので、
相当に部が悪いのですがね。観ている側の目線としては。

 

義政は
「御台はほんのわずかなものを目に見ただけで、この世の全てを
見たような気になっている」と呟く。

それでも、民を思い1日1食しかとらない富子をみて、
「おそらく心が優しすぎるのだろう。自分も御台の慈悲の心に報いてやらねば」
と言って、お金を出そうとする。

 

ところが、せっかく義政が歩み寄ろうとしたそこでもまた、
富子はその金を粥の費用に充てたい。
義政は野ざらしの仏を弔う費用に充てたい。ということで
結局はまた言い争いになってしまうわけです。

もうね。ずーっと救いようもなく平行線です。

 

義政は「施し粥で救われるのは飢えた民でなくこなたの方だ」と言う。
その場限りの一杯の粥で、いたずらに生きる執着を駆り立てられた民は
余計に生き地獄に苦しむのだ。と

富子は、私にはわからないと言う。
自分には義政が死んだ者の側から
生きたものを手招きしているようにしか見えないと言い、
見てしまったものから目を背けることはできないと言う。
「それでも心が動かぬば人ではありますまい」
精一杯生きようとしているものの何が悪いのか。と

 

義政は義政で、
「お前には魂が見えないのか。
人間を見て魂を見ないのでは、明日には消えてしまう霞を見ているようなもので、
つまりは何も見ていないのと同じだ」と。

どちらも強烈な言葉でしょ。

とにかく、こんな話なので、それはもう視聴率なんて、ねぇ(^-^;

 

でも、私はとにかくこのエピソードが心に残っていて
何回でも観てしまうんです。
ちなみに、YouTubeで観ることができます。

 

 

人は自分の見たもの、感じたものをとっかかりにして物事を定義づけようとする。
それが本人の信念につながっていくわけですが、
結局、それは自分の立ち位置によって違う。
自分が見ているものって、いったい何なんでしょうね。

 

富子は、見た者と見なかった者との違い
生きた者の側と死んだ者の側
という風に分けますが、

それって形而上学の学びと同じだなぁと思います。
見えるものしか見ていなかったら、見ていないと同じだと言われても仕方がない。
現にこの世には目に見えるもの見えないもの両方があるのだから。

 

途中、義政の庭いじりのシーンで、庭師が池の水を箱庭に流すと
義政が死人の匂いがすると言います。庭師には嗅いでもにおわない。

結局、水がにおうのは、その水が賀茂川から引き込んでいるからだとわかります。
飢餓で賀茂川には毎日300人もの人が浮かんでいるんです。
その事実を既に見てしまっている庭師には水はにおわない。
彼には人が日々死んでいるのは現実であり、言ってみれば日常なんです。

でも、見ていない、知らない義政はにおいを感じる。
彼にとっては、彼の住む現実に対する違和感として感じられるんです。

 

私たちは肉体をもって生きている。でもそれはほんのひとときの乗り物で、
その乗り物を動かしているのはスピリットと魂。
でも肉体がなかったらスピリットの望む経験はできない。

見える世界と見えない世界。

まさに日々そのことについて考えている私には、富子の言い分も
義政の言い分もよくわかる。
人には間違いなくどちらも必要だということも。

だからアデプトプログラムのような形而上学について
お伝えするという仕事をしているんです。

 

何より両方の世界があるということを知っていないと始まらないですが、
知っていたとして、
それでもどちらか片方しか見ようとしなったなら、
富子と義政のように、お互いに全く相いれない関係性になってしまう。

そのどうにもならない関係性を観ることで、いつも深く考えさせられてしまうのです。
それでは自分は、自分の人生で何を為すべきかということを。

 

毎回観るたびに内側で何かが動いて、ざわざわします。
それが何なのか確かめたくて
自分の中の覚悟を決めたくて

何年かに1度観てしまうのかもしれません。

 

 

 

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